善勝寺だより 第87号平成26年6月26日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その14おのれこそ おのれのよるべ
おのれを措(お)きて 誰によるべぞ
よくととのえし おのれにこそ
まことえがたき よるべをぞ獲(え)ん
中村元氏訳は次のようになっています。
自己こそ自分の主(あるじ)である。
他人がどうして(自分の)主であろうか。
自己をよくととのえたならば、
得難き主(あるじ)を得る。
(友松圓諦師訳 160)
以下は、前回同様青山俊董氏の解説を要約して紹介致します。
[私は大学在学中、誰かこの私の悩みを解決してくれる者はいないか、誰か救って下さる人はいないかと、うろうろと探しつづけた。性急に答えがほしい。しかし誰も答えてくれない。
大学の授業に愛想をつかした私は、授業をそっちのけにして、あちらの講演、こちらの講演と聞き歩いたり、図書館で一日中、私の悩みを解決してくれそうな本を読みあさったりしたものである。命がけで求めてきた人たちの話、青春の遍歴などを聞いた後は、何となくわかったような気がして、私の悩みも少しは解決できたような気がする。またそういう本にぶつかって読みに読んで、「あ、そうか!」とわかったような気がする。肩の荷がおりたような気がする。ところが二、三日経ってみると、もとの木阿弥で、依然として何の解決もついていないモヤモヤした自分がそこにある。
求めては絶望し、求めては絶望し、性懲りもなく求めては絶望し、そんなことを繰り返したあげく、どんなにお釈迦様が立派なことをおっしゃっても、それはお釈迦様の救いであり、お釈迦様の見つけ出された道であって、私の救いでも私の行く道でもない。道元禅師がいかに立派であって、どんな教えを残されようと、それは道元禅師の行きつかれた道であり救いであって、私の救いではない。誰もこの私を救ってくれやしない、誰もこの私を具体的にこうと教えてくれやしない。救いはないんだ、救いはないんだと心につぶやきながら、うろうろ、うろうろと歩きまわった。
そのとき、稲妻のように私の頭にひとつの言葉がひらめいた。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措きて 誰によるべぞ」の、『法句経』の一句である。
「あっ」と思わず私は声をあげた。なぁんだ。最初から、誰も助けてはくれないんだぞ、他に求めては駄目なんだぞ、とお釈迦様は説いて下さっていたんじゃないか。15歳で出家したその最初に、この『法句経』の一句はよくそらんじていたはずなのに、ほんとうは何もわかっていなくて、さんざん探しまわり、探すことを諦めた今、ようやく初めてこの句にほんとうに出会うことができた。この句に出会ったということは、お釈迦様に出会ったということにもなる。こういう言葉を説かないではおられなかったお釈迦様も、ここに至られるまでの遍歴は、やはり救いを、解脱を求めての長い長い苦悶の旅であったにちがいない。] (続く)
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