善勝寺だより 第88号平成26年9月10日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その15いと小さき 幸は捨てなん
大いなる 幸世に有りと
知りたらば 賢き人は
大いなる 幸をのぞみて
いと小さき 幸は捨つべし
(290)
中村元氏のパーリ語からの現代語訳は、「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」となっています。
仏教では「三界(さんがい)」と言う言葉をよく使います。施餓鬼法要の時も、施餓鬼棚の中央に「三界萬霊(さんがいばんれい)」と書かれた大きな位牌を祀ります。
三界とは、欲界、色界、無色界の三つの世界を云います、三つの世界はいずれも迷いの世界であって、その三つの世界をぐるぐるさ迷っているのが我々凡夫であります。
山田無文老師の説明によりますと、欲界とは、ただ欲望だけに生きる価値を感じている凡夫の世界、食欲、性欲といった本能的欲望の追求だけに生き甲斐を感じている人達の世界である。
色界は物の世界です。動物的欲望からではなく、物そのものを愛して研究し或いは収集する人達の世界である。謂わば科学的趣味に生きる人達の世界であり、欲界の凡夫よりは些か高尚ではありますが、迷いの衆生であることは同じであります。
無色界とは、物のない世界で、専ら精神的な世界であります。欲望の追求でもなく、物の研究でもなく、全く精神的な喜びに生きる人達であります。芸術家であるとか詩人であるとか、或いは哲学者であります。しかしこれも仏教に立場から見れば、まだ凡夫であることを免れない。
わかりやすくたとえて云うならば、女性の裸体を見てすぐ性欲を感ずるものは、欲界の衆生であり、それを一個の物体とみて医学的判断などを下す人は色界の衆生である。更にそれを芸術的対象として画がかけ、詩のできるような人たちは、無色界の衆生ということができよう。
しかしこの三つの世界が、別々にあるのではなくして、一人の人間が、時には色界で働くかと思えば、時には無色界に遊んで嘯(うそぶ)き、また時には欲界に堕(お)ちこんで呻吟(しんぎん)したりもするのである。
つまり三界を輪廻して、悩むのが凡夫の常である。
欲界には欲界の楽しみがあり、色界には色界の楽しみがあり、無色界には無色界の楽しみがあって、それぞれの世界に生き甲斐を感じているのでありますが、それらの楽しみや幸せを「いと小さき幸」と、お釈迦様は説かれているのであります。
「大いなる幸」は言うまでもなく、「三界出離(さんがいしゆつり)」悟りの世界であります。
「三界は悉くわが有(う)なり、そのうちの衆生はみなわが子なり」とお釈迦様は述懐されました。全世界を我が家とし、全人類を我が子として生きる最高の生活、それ以上大きな楽しみがどこにあるでしょうか。
悟り、つまり完成された人間を目指して歩む、そのことこそに喜びを感じる。そんな生活を送りたいものです。
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