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第36号 秋彼岸号(平成13年9月14日発行)

善勝寺だより 第36号
平成13年9月14日発行
発行責任者 明見弘道
今年は7月が暑かったせいかお盆を過ぎた頃から秋の気配が感じられます。境内には彼岸花が一斉に頭を伸ばし、彼岸になったら花を咲かし、みんなに見てもらおうと待っているかのようです。(この彼岸花は今後、駐車場の周りに植えて徐々に増やしていく予定です)
皆様にはいかがお過ごしでしょうか。

先月当山の施餓鬼会には多数お参りいただきありがとうございました。天候にも恵まれ、平日にもかかわらず、昨年よりさらに増え450余名の檀信徒、並びにその家族、また親戚の方々を迎えての施餓鬼法要でした。 当寺役員の外、お手伝いいただいています皆様も毎年のことで慣れていただき、混乱もなくまたスムーズに、終えることができました。

弁当も500食用意したところ、余ったのは8個だけで、反省会では、「弁当を配っているときには足りなくなるのではと心配したがよく計算してあったものだ」と言って笑みがもれていました。
福祉作業所『ポプラ館』の売店は菩提樹の鉢を除いて、クッキー・花・野菜などはすべて売れました。これらの売上金はこの作業所の運営に当てられるのですが、それよりも、館内だけの作業に終わらず、館外に出て販売することにより、社会とつながりがもてていることの実感が喜びとなり、今後の館内の運営に大いに役立つとのことです。

次に、施餓鬼会の供養料のことですが、欠席者からの振り込みも合わせ、165万6千円でした。当日の経費を差し引き、20万円と当日の募金を寄付致しました。
内訳は、ユニセフ協会に53,716円(安全な水を得る手押しポンプ付井戸3ヵ所設置できます)。難民を助ける会に、対人地雷撤去のため5万円と、マラリア予防のための蚊帳25帳分、5万円。佛教情報センターに活動助成費として、5万円。(おのおの送金済み)

一寺院の施餓鬼会ではありますが、多くの意味を持った行事となりました。無事に終えることができたことは、檀信徒すべての皆様のお陰と感謝致します。
本当にありがとうございました。

さて次は彼岸の案内ですが、彼岸の意義は、遙か遠い所に彼岸(理想の世界)を求めるのではなく、いま・ここにいる私がすべて完成された存在であり、たとえ辛いこと、悲しいことであっても、この現実をあるがままに受け入れることにあると思います。

弘道合掌

秋期彼岸会のご案内

恒例の彼岸法要を左記の如く行います。皆様お誘い合わせのうえ、多数お参り下さいますよう、謹んでご案内申し上げます。

9月23日 午後2時より
法要の後、法話・茶礼

※塔婆を建てられる方は前もって、電話またはファックスでお申し込み下さい。

東光山ミニ法話

『白隠禅師座禅和讃』その4

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

自らが仏であるにもかかわらず、私たちは自分自身の中に本当に頼るべき拠り所を見つけることができない。自分がダメだというこの思い込みが、あまりにも深いからです。そして自分が信じられないゆえに、私たちは遠くの方の何かに期待し、それによって自分を充実させ、自分を豊かなものにしようと考えてしまう。

しかし、思い返してみてください。逆説のように聞こえるかもしれませんが、皆さんが本当に充実していると思った瞬間とは、自分自身を忘れてしまっていたときではないですか。自分がなくなった瞬間こそ、一番充実していたと後に感じられるものなのです。
スポーツでも遊びでも、音楽鑑賞でも、仕事や家事でも何でもそうですが、今日は一日充実していたと思ったときは、スポーツならそのスポーツだけ、音楽鑑賞なら音楽だけがそこにあり、自分は無になっていたのではないでしょうか。自分を忘れていたとき、その時こそ、逆にめいっぱい自分を充実させていたのだと思うのです。
本当の幸せというのは、充実することではないでしょうか。充実したとき、私たちはそれが苦しみや痛みや寂しさを伴っていようと、「幸せ」という思いを噛みしめることになります。たとえ泣くことになろうと、寂しさに気が狂いそうな思いをしようと、本当に充実した悲しさ寂しさであるならば、その人はその時期を振り返って、「自分は人の何倍も生きることができた、人生を非常に深く味わって生きることができた」と満足するに違いありません。
第一、「満足」という言葉は「充実」という言葉と同じことですから。

ところが、そういう幸せというものを忘れてしまって何か自分が考えている特定のものを手に入れることが幸せだと考えたとき、私たちはそれを自分の身近に見つけられなくて(自分自身の中に見つけられないのだから、日常的に自分の周辺にあるものにはなおさら見つけられなくて)、遠いところに求めようとする。

これをカール・ブッセは次のように見事に歌っています。

山のあなたの空遠く、「幸」住むと人のいう
ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ
山のあなたになお遠く、「幸」住むと人のいう

(上田敏訳)

自分がそう信じているのではない、人が言っているのです。山の遠くの「向こう側」に自分が今もっていない「幸」というものがあると人が言う。自分を信ずることもできないし、自分の現在持っているものの中に幸せを見出すこともできない人たちは、そういう人の言葉を聞いて「幸」を求めて出かけて行く。しかし自分の信念として、山の向こうへ一人で出かけていくだけの勇気はない。
誰かを誘って、一緒にそれを尋ねて行ってみたけど何も幸せを見つけることがでず、涙しながら帰ってきた。
それでその虚しさに気づいたのかというと、そうではなく、自分が出かけて行った向こうの山は近すぎた。もっと遙かかなたの山だったら「幸」があったのにと人が言う。そして、その言葉にだまされる。
「遠く求むるはかなさよ」です。

(故 盛永宗興老師の著書より)

年末年始の行事

次号の『善勝寺だより正月号』は、1月4日過ぎ「大般若祈祷札」といっしょにお届けすることになりますので、ちょっと早いのですが、あらかじめ年末年始の行事をお知らせしておきます。

除夜(ジョヤ)

大晦日 午後11時半から除夜の鐘をつき始めます。百八つき終わるのは零時半頃になります。ゆく年の無事を感謝しつつ、来る年の平穏を祈って、心を込めてついて下さい。
振る舞い酒もあります、多数お越し下さいませ。

修正会(シュウショウエ)と年始

正月元旦~3日 午後10時より修正会大般若祈祷を行います。
善勝寺に古くから伝わる大般若六百巻を転読し、仏法の興隆、五穀豊穣、山門並びに檀信徒各家の無事を祈る行事です。
三日間祈祷した『大般若札』は、今年度護持費を納入いただいた皆様にお届け(郵送)致します。
この祈祷終了の後、書院にて年始の挨拶と致します。(午前中のみ)
三日間の内ご都合の良い日にお出かけ下さい。
注《午後は書院での接待は致しません》

施餓鬼法要の決算

 〈収入〉
供養料(盆供) 665万6千円
塔婆料(511基)153万3千円。合計318万9千円。

〈支出〉
弁当代50万円。飲み物代20万円。テント・椅子など15万円。塔婆・花・供物など27万円。バス代3万円。
寺院御礼・臨時手伝い等人件費30万円。合計およそ145百万円。

寄付金20万円の内訳は前述の通りです。以上ご報告致します。(会計)
『施餓鬼会』に関して皆様からのご意見をお待ち致しております。(役員)

第11回 『わかる佛教講演会』ご案内

とき 11月9日(金) 午後3時30分 開演
ところ 《クレアこうのす》大ホール 免許センター前
講師 立松和平氏
テーマ 『お釈迦様の生き方』
主催 鴻巣地区佛教研究会 鴻巣市仏教会

*入場は無料ですが、入場整理券が必要となります。整理券は善勝寺にありますが、遠方の方は郵送も致します。
多数ご来場下さいますようご案内申し上げます。

境内の話題

鴻巣駅からの路線バス開通決定

切望しておりました鴻巣駅からの路線バスが、来年早々にも開通の運びとなりました。
バス停も、自治会長さん、地元議員さんの働きかけもあり『善勝寺前』がほぼ決定しました。
時刻表などは次回の善勝寺便りに載せますが、一日18往復、料金は100円とのことです。おおいにご利用下さい。
このバス開通後は、タクシーチケットの供与は原則として廃止します。

一口メモ

友引の日に法要はできますか?

友引や大安・仏滅などといった六曜(六輝とも言う)は中国の星占いの一種です。もともと戦の勝敗に関する占いで、友引は「共に引く」仏滅は「物が滅する」ということのようです。
仏滅と書くので佛教と関係があるかのようですが、全くありません。
本来、佛教は占いそのものを禁じています。たとえ友引に葬儀をしたとしても問題はありません。火葬場が休みのところが多いので、葬儀はできないのですが、法要は全く関係ありません。

編集後記

当寺役員による施餓鬼会の反省会で、ポプラ館に委託販売した『菩提樹』が売れなかったことが話題になりました。
冬のうち温室に入れてあったので大きくなりすぎていたのでは、との意見が大半で、持ち帰りのことを考えると、小ぶりで盆栽風の方がよいのではという結論に達しました。
すでに小ぶりのものも用意できましたので、彼岸などご来山の時見て下さい。

次に、年始のことですが、誠に勝手ながら来年から書院での接待は午前中とさせていただきます。
できる限り10時からの大般若祈祷にお参りいただき、その後、書院にて年始の挨拶といたしたく存じます。
埼玉の永代供養、墓じまいのご相談は善勝寺
〒365-0013
埼玉県鴻巣市境147
TEL.048-569-0810
FAX.048-569-2294
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