善勝寺だより 第42号
平成15年3月12日発行
発行責任者 明見弘道
平成15年3月12日発行
発行責任者 明見弘道
犬の散歩をしていると、季節の移り変わりがよくわかります。まだまだ寒いと感じていても、ふきのとうもつくしも、もう顔を出しています。
檀信徒の皆さまにおかれましては、益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
先日、子供の絵本の内に『つりばしゆらゆら』(森山京作)というものを見つけました。
檀信徒の皆さまにおかれましては、益々御健勝のこととお慶び申し上げます。
先日、子供の絵本の内に『つりばしゆらゆら』(森山京作)というものを見つけました。
『谷川の上に吊り橋がかかっていました。ある日、きつねの子とくまの子とうさぎの子が、吊り橋のたもとにやってきました。』という始まりです。
長く細い橋が一本の道のようにつながっていて、揺れています。『3匹は谷底をのぞき込んで、いっせいに首をすくめました。』とても怖くて子供には渡れそうにありません。しかし、吊り橋の向こうにきつねの女の子がいることを聞いて、きつねの男の子はどうしてもいってみたくなりました。くまの子と、うさぎの子は、「もっと大きくなってからでないと無理だよ」といったのですが、きつねの子は、大きくなったきつねの子より、小さいきつねの子と遊びたいと思ったのです。
朝早くきつねの子は橋のたもとにゆき、そっと足を板の上にのせます、でも3歩進んだところで足がすくんで歩けなくなりました。
次の朝は5歩、その次の日は6歩と、だんだんと進んで橋のまん中まで行き、そこできつねの子は「聞いてね」といってまだ見ぬ向こう岸にいるきつねの女の子に、ハモニカを吹きます。むすんでひらいてをゆっくり吹いて、2回目にかかったときあたりがぱっと明るくなりました。「きつねちゃーん」はっとして吊り橋の向こう側を見ますがきつねの女の子の姿はありません。「きつねくーん」声は反対側からで、くまの子とうさぎの子が呼んでいました。「おーい、いま帰るよ」きつねの子は、もう一度向きを変え、橋の向こう側を見て小さな声でいいました。
『またいつかあそぼ。』(おわり)
かいつまんで書くとこんな内容です。最後には女の子に会えるのだと思って読んでいたのですが、会えないのです。
努力すれば成就できるという内容の絵本が多い中、この本は違います。また現実も違います。
思い通りにならないのがこの世ですが、あちらの岸(理想・迷いのない世界)に行きたいというその心が尊いのであり。たえずそちらの方を向いて努力している人を菩薩といいます。
どのみち今はゆけないのだから、そのうちいつか、ではなく、今、なすべきことを一歩一歩あゆんでいる姿は他に感銘を与えると同時に、その人にとって、充実した日々となることでしょう。
努力すれば成就できるという内容の絵本が多い中、この本は違います。また現実も違います。
思い通りにならないのがこの世ですが、あちらの岸(理想・迷いのない世界)に行きたいというその心が尊いのであり。たえずそちらの方を向いて努力している人を菩薩といいます。
どのみち今はゆけないのだから、そのうちいつか、ではなく、今、なすべきことを一歩一歩あゆんでいる姿は他に感銘を与えると同時に、その人にとって、充実した日々となることでしょう。
明見弘道
東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その10
布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、
其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。
其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。
他に施しをしたり、自分に厳しく戒を守ったりする仏教の実践(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)。あるいは念仏を唱えたり、自分の行いを懺悔したり、身をもって仏道の修行をするなど、種類さまざまな諸々の仏道の実践も、結局はこの禅定(座禅)というもののなかで成就されるのである。(西村恵信師訳)
『波羅蜜』というのはインドの言葉でして「彼岸に至る」と訳されます。
「彼岸」つまり向こう岸です。向こう岸があるということはこちら側があるということです。こちらを「此岸」といい、前に述べた「六道」の世界をいいます。こちらの岸とあちらの岸を隔てているのが「煩悩の河」です。
そこで、向こう岸にいる「仏」はどのようにして煩悩の河を超えることができたか、その実践徳目内容が「六波羅蜜」ということとなります。
その第一番目が『布施』です。
布施という言葉は、今日でいうボランティアというのと同じです。ボランティアといわずに布施行といえばよいのですが、一般には「お布施」といえば、葬式や法事の時僧侶に出すお金のことと思ってしまいます。これも布施には違いありませんが、布施の一つにすぎません。これは財産の布施ですから「財施」といいます。
これに対してお釈迦様は「無財の七施」ということを説いておられます。
誰にでも例外なくできる7つの布施、人を積極的に喜ばせる方法といってよいでしょう。
この7つを順次見ていきます。
『和顔施』どんなに苦しくても一生懸命生きている人はすばらしい顔をしています。人を引きつけ、喜ばせる笑顔の持ち主です。
『眼施』「目は口ほどにものを言い」とも、「目は心の窓」とも言います。目はストレートにその人を表眼します。感謝、愛情の目は、人に対して大きな施しとなります。
『言辞施』言葉の持つ力は大きいものがあります。それだけに感謝の言葉、また、素直に謝ることも、その言葉は「布施」となります。しかし目も言葉もその力が大きいだけに人を傷つけることにも成りますので注意が必要です。
「彼岸」つまり向こう岸です。向こう岸があるということはこちら側があるということです。こちらを「此岸」といい、前に述べた「六道」の世界をいいます。こちらの岸とあちらの岸を隔てているのが「煩悩の河」です。
そこで、向こう岸にいる「仏」はどのようにして煩悩の河を超えることができたか、その実践徳目内容が「六波羅蜜」ということとなります。
その第一番目が『布施』です。
布施という言葉は、今日でいうボランティアというのと同じです。ボランティアといわずに布施行といえばよいのですが、一般には「お布施」といえば、葬式や法事の時僧侶に出すお金のことと思ってしまいます。これも布施には違いありませんが、布施の一つにすぎません。これは財産の布施ですから「財施」といいます。
これに対してお釈迦様は「無財の七施」ということを説いておられます。
誰にでも例外なくできる7つの布施、人を積極的に喜ばせる方法といってよいでしょう。
この7つを順次見ていきます。
『和顔施』どんなに苦しくても一生懸命生きている人はすばらしい顔をしています。人を引きつけ、喜ばせる笑顔の持ち主です。
『眼施』「目は口ほどにものを言い」とも、「目は心の窓」とも言います。目はストレートにその人を表眼します。感謝、愛情の目は、人に対して大きな施しとなります。
『言辞施』言葉の持つ力は大きいものがあります。それだけに感謝の言葉、また、素直に謝ることも、その言葉は「布施」となります。しかし目も言葉もその力が大きいだけに人を傷つけることにも成りますので注意が必要です。
『心施』心がなければ目にも顔にも言葉にも出せないわけで、心はすべての根本ですが、「心の施し」というのは、人のために祈ることも含まれています。人が人のためにしてあげられることには限界があります。「どうか立ち直ってくれますように」などと心から祈る、これも大切な布施です。
『身施』体を使ってすること。これはたくさんあります。
『牀座施』座席を替わる、あるいはここが空いていますよと呼ぶのも好意であり布施になります。
『房舎施』は家に泊めてあげることです。人を泊めることは、様々な面で本当に献身的な努力が必要となります。
「理想的な社会になってほしい」というのはすべての人たちが願うところです。しかし、理想的な世界、仏教で言う『彼岸』に到達するためには、何をしなければならないのか、何が欠けているのか、できることでありながら実践せずに、逆に地獄を作る手伝いをしていたことがいかに多かったか、自分の生活に照らして考えなくてはなりません。
『身施』体を使ってすること。これはたくさんあります。
『牀座施』座席を替わる、あるいはここが空いていますよと呼ぶのも好意であり布施になります。
『房舎施』は家に泊めてあげることです。人を泊めることは、様々な面で本当に献身的な努力が必要となります。
「理想的な社会になってほしい」というのはすべての人たちが願うところです。しかし、理想的な世界、仏教で言う『彼岸』に到達するためには、何をしなければならないのか、何が欠けているのか、できることでありながら実践せずに、逆に地獄を作る手伝いをしていたことがいかに多かったか、自分の生活に照らして考えなくてはなりません。
(参考 故盛永宗興老師の著書)
境内の話題
2月16日と17日の2日間で観音堂は跡形もなく解体されました。
15日の朝読経し、額やら絵馬を外しておきました。解体時には、まる柱や欄間、格子などは大工さんによって丁寧に外され、できるだけ再建に利用する予定です。
額は平成2年、当時の村の教育委員会により赤外線写真による資料が残っていましたが、その文章は難解で、漢文の大家、京都本山の天祥院の老僧にその解読をお願い致しました。
また、この度外された『棟木札』も、保存状態が良く、観音堂建立のいきさつがよく解りました。
これらを総合的の判断しますとおよそ次のようになります。
寛文年中(1661~1673最初の観音堂が建てられた時期)、当時境村の邑長(村主)の祖父の屋敷の内、草も生えず、何を植えても生育しないところがあった、主人がおかしいと思いそのところを掘ってみると木像一体を得た。これを家においていたところ子供がいたずらをして目が悪くなったり、腹が痛くなったり、またあるときは家中のものが重病になった。これは偶然ではないと思い、主人がこの木像を寺に寄付し門の左側にお堂を建てて安置した。
是より霊験日々新たに、お産をするもの之を祈れば安産し、諸病を患うもの之を念ずればすなわち快癒する。多くのものが参拝するようになった。
100年近くたったお堂は再建の時を迎え、当寺8世住職、観心祖盛和尚は、20年以上の歳月をかけ、地方を巡回し、多くの信者より浄財を集め、ようやく再建することとなった。
棟木札には寶永8年4月28日
現住比丘祖運とあるが、4月25日に年号は改められ正徳元年(1711年)徳川5代将軍の時代であります。
15日の朝読経し、額やら絵馬を外しておきました。解体時には、まる柱や欄間、格子などは大工さんによって丁寧に外され、できるだけ再建に利用する予定です。
額は平成2年、当時の村の教育委員会により赤外線写真による資料が残っていましたが、その文章は難解で、漢文の大家、京都本山の天祥院の老僧にその解読をお願い致しました。
また、この度外された『棟木札』も、保存状態が良く、観音堂建立のいきさつがよく解りました。
これらを総合的の判断しますとおよそ次のようになります。
寛文年中(1661~1673最初の観音堂が建てられた時期)、当時境村の邑長(村主)の祖父の屋敷の内、草も生えず、何を植えても生育しないところがあった、主人がおかしいと思いそのところを掘ってみると木像一体を得た。これを家においていたところ子供がいたずらをして目が悪くなったり、腹が痛くなったり、またあるときは家中のものが重病になった。これは偶然ではないと思い、主人がこの木像を寺に寄付し門の左側にお堂を建てて安置した。
是より霊験日々新たに、お産をするもの之を祈れば安産し、諸病を患うもの之を念ずればすなわち快癒する。多くのものが参拝するようになった。
100年近くたったお堂は再建の時を迎え、当寺8世住職、観心祖盛和尚は、20年以上の歳月をかけ、地方を巡回し、多くの信者より浄財を集め、ようやく再建することとなった。
棟木札には寶永8年4月28日
現住比丘祖運とあるが、4月25日に年号は改められ正徳元年(1711年)徳川5代将軍の時代であります。
境内の話題の続き
地鎮祭のこと
3月6日午前11時より、高橋寺社建築会社の棟梁、当寺役員出席のもと、観音堂再建(実際は再々建)山門建築のため、地鎮祭を行いました。
地鎮祭の後、出席者の皆さんと食事をしたのですが、話題は観音堂が建てられたいきさつや、その当時の村の生活をあれこれと想像し、300年前の世界に浸っていました。
彼岸の後、工事も本格的に始まります。参拝の皆様には、足下、頭上にご注意の程、宜しくお願い申します。
地鎮祭の後、出席者の皆さんと食事をしたのですが、話題は観音堂が建てられたいきさつや、その当時の村の生活をあれこれと想像し、300年前の世界に浸っていました。
彼岸の後、工事も本格的に始まります。参拝の皆様には、足下、頭上にご注意の程、宜しくお願い申します。
春季彼岸会ご案内
下記の如く彼岸法要を行います。多数ご参拝賜りますよう、謹んでご案内申し上げます。
記
彼岸法要
3月21日 午後2時より
引き続き 法話・茶礼
塔婆をお建てになられる方は、お墓参りなさるときまでに準備致しますのでお早めに、FAXまたはお電話にて、ご連絡いただきますようお願い申し上げます。
3月21日 午後2時より
引き続き 法話・茶礼
塔婆をお建てになられる方は、お墓参りなさるときまでに準備致しますのでお早めに、FAXまたはお電話にて、ご連絡いただきますようお願い申し上げます。
護持費納入有り難うございました
平成15年度分護持費の納入をお願いいたしましたところ、早速にお納め頂きまして有り難うございました。
尚、当寺に墓地(合同墓地を除く)を取得されておられる檀徒の方、また、本堂内にご遺骨を預けておられる方で、護持費がまだ未納の方は、3月末日までには必ず納入下さいますようお願いいたします。
直接現金でお寺にお持ちくださる方もありますが、事務処理の都合上、郵便振替にて納付いただきますようお願いいたします。
また、振替用紙は郵便局の窓口にもあります。
尚、当寺に墓地(合同墓地を除く)を取得されておられる檀徒の方、また、本堂内にご遺骨を預けておられる方で、護持費がまだ未納の方は、3月末日までには必ず納入下さいますようお願いいたします。
直接現金でお寺にお持ちくださる方もありますが、事務処理の都合上、郵便振替にて納付いただきますようお願いいたします。
また、振替用紙は郵便局の窓口にもあります。
会計 関根安正
振替口座番号は、00500-8-60592 善勝寺
編集後記
『善勝寺だより』彼岸号は「観音堂」特集のようになりました。
今回、この観音堂が建てられたいきさつを知って特に感銘を受けたのは、当寺八世住職「観心祖盛」という和尚さんのことで、古くなった観音堂を再建しようと、20年以上かかって、広く浄財を集められたことです。
殿様や庄屋さんがポンと寄付してくれたのではありません。また、現在のように檀家の方に寄付させたのでもないのです。各地を足で歩いて勧進されたことと思われます。
時間の流れがゆったりしていた時代とはいえ、こつこつと20年以上続けられたという信念には敬服しました。
今回、この観音堂が建てられたいきさつを知って特に感銘を受けたのは、当寺八世住職「観心祖盛」という和尚さんのことで、古くなった観音堂を再建しようと、20年以上かかって、広く浄財を集められたことです。
殿様や庄屋さんがポンと寄付してくれたのではありません。また、現在のように檀家の方に寄付させたのでもないのです。各地を足で歩いて勧進されたことと思われます。
時間の流れがゆったりしていた時代とはいえ、こつこつと20年以上続けられたという信念には敬服しました。
その浄財で観音堂が再建され、棟木札を書いたのは、次の住職、善勝寺中興(第九世)天随祖運和尚でした。
観心祖盛和尚は、観音堂落慶の年、正徳元年12月16日に遷化されたのであります。
弘道