善勝寺だより 第76号平成23年9月7日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その33 「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
4 「かれは、われを罵(ののし)った。かれは、われを害した。
かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
という思いをいだかない人には、ついに怨(うら)みが息(や)む。
5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 (中村 元 訳)
過去のことはさっさと忘れて、その日その日新たな気持ちで生きてゆけたらどんなにか幸せでしょう。
「毎朝顔を洗うように、毎日新しい意識で、新しい世界を生きてこそ人生の意義と価値と幸福が発見されるであろう。」(無文老師の法句経講話より)
しかし私たちは、いつまでも過去にこだわり、悲しんだり腹を立てたりします。夫婦・親子・兄弟でもちょっとした行き違いをいつまでも根にもって蒸し返しては喧嘩します。
人間の執着心はとても根深いものがあります。この執着心が我々の心を乱し、社会を混乱に陥れ、それがまた戦争へとつながっているのです。
「人類が戦争に終止符を打たなければ、戦争が人類に終止符を打つであろう」ケネディ元大統領の言葉です。
原爆を積んだ大陸間弾道弾が行き交うことになったら、人類に終止符を打つことになります。
とにかく平和でなくてはなりません。人の心も、家庭も、社会も、国家も。そして世界が平和でなくてはなりません。その平和を破るのが人の心に根づよく巣喰う怨みの心です。
まこと、怨(うら)みごころは いかなるすべをもつとも怨みを懐(いだ)くその日まで 人の世にはやみがたし
うらみなさによりてのみ うらみはついに消ゆるべし
これ易(かわ)らざる真理(まこと)なり
以上は友松圓諦師の訳です。漢文調で重みのある詩になります。
この怨みの心をなくせよ、怨みの心を忘れよといっても、そう簡単ではありません、怨みの心を抑えようとすればすれほど、怨みの心が大きくなることもあります。
怨みは心に刺さったトゲのようなものです。目に入ったゴミを取ろうとして、こすればこするほど奥に入ってしまうのと同じで、心のトゲも取り除こうとして、もがけばもがくほどより奥に入ってしまうものです。目に入ったゴミもほっておけばいつの間にか取れていたということがありますが、怨み怨まれていた人とも、何かのきっかけで仲良くなることもあります。
それは、自分の心が素直になれたときがそのきっかけとなります。静岡県に、清見潟(きよみかた)という名所があるそうです、また、清見寺という寺もあります。清らかな素直なものの見方、ありのままをそのままに見てゆくという意味です。
その逆が、「あの人はあんなにきれいことを言っているがあれは本心ではない」、などと裏を見てゆこうとすると、怨(うら)みにつながります。子供のような無邪気な心、無心が怨みを解く鍵といえるでしょう。
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