善勝寺だより 第75号平成23年6月28日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その21 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛の)足跡に車輪がついて行くように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。 (中村 元 訳)
前回、法句経とはどういうお経かということを述べ、423の短い詩から成り立っていることも書きました。
今回はその第1番と2番目の句です。
「すべては意(こころ)より成る」神の意志でもなく単なる自然現象でもなく、人間の意志こそ、すべての存在の意味と価値を決定する基本である。と無文老師は解説されています。
漢文では「一(いつ)切(さい)唯(ゆい)心(しん)造(ぞう)」といいます。
私たちの言葉や行いが、汚れた意志によってなされるか、清らかな意志によってなされるかによって、世界のすべての存在の意味と価値が決定されます。もし汚れたれる心によって言動するならば、その人の一生と、その世界に苦しみ悩みは絶えない。牛車の牛に車が必ず従い、車に轍(わだち)がおのずから着き添うようなものである。
それに反して、清らかな心でものを言い行動をするならば、楽しみはその人の姿を離れない影のように、常にその周囲に着き添うであろう、と示されています。
「心」と訳されている原語は、パーリー語でマノ、サンスクリットではマナスで、「意」または「意志」と訳しココロと読ませるのが通例とされています。マナスはすべての心の働きの中心となっているもので、「動機」と言ってもよいとの説もあります。
仏教では、人間のマナスつまり奥深いところの心は、本来清らかなものであるという前提があります。「自性清浄心」あるいは「大円鏡智」と名付けられ、本来大きな円い鏡のように清らかなものであるとされます。
法句経百83句には「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」(諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教)とあります。
悪いことをするな、善いことをしなさい。言葉は簡単ですが行うことは容易ではありません。ためらいもなく悪事を行うのに、善の行為をするのに躊躇するのはどうしてでしょう。法句経第九章は「悪」というタイトルですが、そこには「心は悪事を楽しむ」とあります。癖になってしまうという意味でしょう。「悪事に生き甲斐を感じて、それを繰り返してはならない。悪が積み重なるのは、苦しみである。」
本来の心(意)は善であっても、長年にわたって形成された心の癖によって本来の善の心が発揮できないでいます。善いことを心掛け、それを繰り返しているうちに、生き甲斐を感じ、それが楽しみに変わるとお釈迦様は説法されました。
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