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善勝寺だより 第69号

平成21年12月25日発行
発行責任者 明見弘道
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善勝寺だより第69号

東光山ミニ法話

 『般若心経』 その13

 

 三世諸仏
   依般若波羅密多故
     得阿耨多羅三藐三菩提

三世は過去・現在・未来ですから、三世諸仏とは、過去に悟りを開いた人、現在の悟りを開いた人、未来に悟りを開く方、と言う意味になります。

十方三世一切諸仏、とも言います。仏教で言うところの仏様は過去現在未来あらゆる所におられます。これらの方々がお悟りを開かれたのは、それは般若の智慧によるものであります。

阿耨多羅三藐三菩提は、アヌッタラーサムャクサンボーディの音写語です。

アは、ヌッタラーは、サムは、ミャクは等、サンは、ボーディはです。つまり無上正等正覚と翻訳され、この上なく正しく平等な悟りの世界に入っている(得ておられる)のである。という意味になります。

無文老師の本には、「無上はこの上ないということでありますから、言い換えるならば尊厳なということであります。正等は正しく等しいということ、皆等しくなるということですから、これは普遍的ということであり、皆が平等に持っておると言うことであります。正覚は人格ということになりますから、阿耨多羅三藐三菩提とは、尊厳なる普遍的人格ということになりましょう。」と結論付けておられます。

この「阿耨多羅三藐三菩提」は、お経によくでてきます。観音経も「阿耨多羅三藐三菩提心」が最後の言葉です。

耨多羅三藐三菩提の心を得ることは、人生の究極の目的であります。

「人生の目的は人格の完成にある。人間が生まれてきたのは、自分を完成するためだ。自分の最大価値を発揮することだ」と、これはしばしば言われることです。学問をしたり、仕事をして金を得たり、結果的に社会的な地位ができるのも、目的ではありません。手段であったり、枝葉のことです。

目的は人格の完成にあると気が付けば、これは誰にでもできるということになります。金がなくても、肩書きがなくても、学問がなくても、病気で床に伏せていても、その気になれば、いかなる立場に於かれても、誰でも、何処ででもできるわけであります

禅宗は座禅など難行苦行の修行して、『自力』で悟り(人格の完成)を得る教えで、浄土門は、自分のはからいを捨てて、念仏を唱えれば阿弥陀様が救ってくださるという『他力』の教えだ、などと思われがちですが、禅宗でも自力で悟るなどとはいいません。自力・自我を捨てて無心になること、本来自分の持っている本性を発揮することが禅というものであります。つまり、人格はこれから完成するのではなくして、生まれた時に完成されておるものだとわかることが禅ということです。だから、「衆生本来仏なり」と言われるのであります。

「赤子の心にならなければ天国には入れない」と聖書にもありますが、
一休禅師は、
 「おさな子がしだいしだいに知恵 づきて、仏に遠くなるぞ悲しき」
とうたっています。

生まれた時の赤子の、あの無心な心が仏の心である、無心にただニコッと笑っている、あの赤子の心が、われわれの本当の生まれついた心でありましょう。その無心をわれわれは失ってしまったのだ。
 近代思想というか西洋思想は、自我の確立と言うことを言います。しかしこれは一つの過渡的な道程であり、決してこの自我を主張することが、最高のものだとは考えられません。自我を捨てて、そこに誰しもに具わっている尊厳な自己を発見する。これが無上なものでありましょう。

そこでこの耨多羅三藐三菩提の心、生まれたままに持っておる仏の心、無心の心に立ち返りさえすれば、人格はすでに完成されていたのだと悟らせてもらえばそれが仏様であります。その無心になることが般若波羅密多でありますから。十方三世一切の仏が、耨多羅三藐三菩提の心を得ることができたのは、般若波羅密多に依るが故に、であります。そこで「般若波羅密多は諸仏の母」と昔から言われています。

〈山田無文老師の著書などを参考・引用しました。〉

(つづく)
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