善勝寺だより 第63号平成20年7月3日発行発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『般若心経』 その7是故空中
無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
これまで、世に存在する物質的なものは「空」(実体がない)であり、「空」というものは物質的な形として展開するのだ、ということを説いたのですが、さらに、その空の境地を極めていったところの様子を述べています。
空中には(実体がないという立場においては)物質的な形(色)も、感受作用(受)も表象作用(想)も形成作用(行)も識別作用(識)もありません。われわれの感覚器官を考えてみると、五つの感覚と一つの思考器官、すなわち眼と耳と鼻と舌と触覚(身)の五つの感官、これに加えて思考する器官(意)の六つがあるわけですが(これを六根という)、これも固定的な実体はありません。
眼・耳・鼻・舌・身・意のそれずれの対象として色(色や形。目で見るもの)・声(耳で聞くもの)・香(鼻で感じるもの)・味(舌で感じられる味)・触(触れられるもの)・法(思考の対象)があり(以上を六境といい、六根と合わせて十二処という)、さらに識別作用として眼識(目の識別作用)・耳識・鼻識・舌識・身識・意識があり、それらを一つ一つの領域としてみると、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界があります。全部合わせると十八の領域(十八界)になり、これら全てが固定した固定した対象をもっていないということなのです。
いやいや、仏教学の講義になってしまいました。
私たちは、眼・耳・鼻・舌・身・意すべて無いなどと言われてもピンときません。それは当然のことで、ふだん私たちはこの世の中にあるものは、実体としてあるという観念のもとで生きて生活をしているからであります。
科学も、原子が分子を構成して重さがあると言う、ニュートン物理学を教わり、それを固定観念としてもっています。この世のことをニュートン物理学で説明して、一応つじつまが合うから疑問を持ちません。
しかし、量子力学と言われる科学の先端は、物体は、物理的実在なのではなく、観測者とモノとの間の「出来事」と説明されているようです。
これはまさに、般若心経が説くところの仏教的認識と一致します。
般若波羅密多を深く行じ、それを極めた境地から見ると、という前提で今回の「是故空中無色無受想 云々」が説かれているのであって、私たち一般のものは、「本当は存在していないけど、縁によって現れたり消滅したりしているのだ、それぞれの脳の働きによって実在するかの如く認識されているにすぎない」といった程度に理解するしかないようです。
《般若教典(中村元氏)・現代語訳般若心経(玄侑宗久師)などを参考にしました》
水琴窟の音を聞いてください
本堂の西側、くすの木のもとに、蹲い(つくばい)があります。そこにしゃがんで、心を静めるとすてきな水琴窟の音を聴くことができます。
栃木県佐野市法雲寺の住職は、庭師であり水琴窟造りの名人です。臨済会の会合で縁ができ、善勝寺にも造っていただくことになりました。
蹲いの水が地中に落ちるとき、唐津焼きの大きな瓶に反響し、琴のような澄んだ音が聞こえてくるのです。
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