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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第56号
平成18年9月15日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『白隠禅師座禅和讃』その24

 

     此の時何をか求むべき、寂滅現前する故に、
        当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり。

このように素晴らしい状況の中で、更に何を求める必要があろうか。

 一切の苦しみから解放された安らぎが現実となった今、ここがそのまま仏の浄土であり、この自分がこのまま仏にほかならないのである。          (西村惠信師訳)

平成13年正月号(33号)から丁度6年24号に渡って掲載しました、この『白隠禅師座禅和讃』もいよいよ最終回となりました。

参考文献として、始めは故盛永宗興老師の著書「見よ見よ」「お前は誰か」など、後半は故山田無文老師の「座禅和讃講話」を使いました。座禅和讃講話は、今から50年前の講話を編集したもので、妙心寺開山無相大師の600年大遠諱の年でした。今、本山では650年の遠諱を迎えるに当たり、各地で法要が始まっています。遠諱のポスターにもありますが、開山大師のお言葉「本有圓成仏、甚と為てか還って迷倒の衆生と作る」は、みんな本来仏なのになぜに迷っているのだ、と問いかけています。「おまえが仏じゃないか、おまえが仏じゃないか、分からぬか、分からぬか」と、われわれに示されておられます。

なぜ、それが私どもに分からぬかと申しますと、「ただ妄想執着があるため」であります。意が無でないから、清浄でないからであります。

そこで座禅の功徳がようやく熟して「自性即ち無性」と分かり、「無念の念を念」とする心境が開け、「四智円明の月」さわやかに照りさえることになりますならば、「此の時何をか求めんや」であります。

一点の妄想もなく、一念の執着もなく、それらは一切雲散霧消して、「寂滅現前」し、そこに「当処即ち蓮華国」と、一切万象が輝きわたり、「此の身即ち仏」となって、本有円成の仏光は、明晃々と照りわたるのであります。これ以上の喜びがまたとありましょうか。 これ以上の感激がどこにありましょうか。穢土のまま浄土に遊ばせていただき、凡夫のままで仏にしていただけるのであります。人生究極の目的はまさにその絶頂を極めることができるのであります。

そこで、人間性の真実というものは、単なる無でもなく、清浄でもなくして、限りなき愛情と寛容性であり、そして自由なる創造的主体性であることが自覚されるのであります。

しかも、この人間性の真実は、修行によって完成されるものではなく、万人が皆な生まれながらにして、平等にそなえておるのであります。つまり万人が、生まれながらにして皆な仏であり、尊厳なる人格者なのであります。だからわれわれは、万人の人格を等しく尊敬し、互いに礼拝し合ってゆかねばならぬのであります。

まず自分が完成された人格の所有者であるという感激と幸福を自覚し、万人をして、同じくこの感激と幸福に入らしめてゆく宗教こそ、真実にして最高の宗教ではないでしょうか。人間の中に神仏を発見して、互いに尊敬し、拝み合っていく宗教、そしてこの地上に、天国楽土を建設してゆく宗教こそ、科学的にして、最も近代的な宗教ではないでしょうか。禪とはそんな宗教であります。

(完)
 
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