善勝寺だより 第54号 平成18年3月10日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
|
(2ページ) |
東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その22三昧無礙の空ひろく、
四智円明の月さえん。
心が静かに落ち着いて、何のこだわりもない広々とした大空に、
佛の四つの智慧(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)をことごとく具現したような名月が冴えわたるであろう。
三昧という言葉は、「サマーディー」というインドの原語に漢字を当てたものです。「正受」または「禅定」「等持」と翻訳されます。正受の「受」は、般若心経に「色受想行識」とあります、あの五蘊の一つの「受」であり、今日の言葉で感覚にあたると思います。眼には色を見るという感覚があり、耳には声を聞くという感覚、鼻には香を嗅ぐ、舌には味わう、身には暑いとか寒いとか、外界に触れる感覚、意には苦しいとか楽しいとかが分かる感覚があります。
つまり、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を通じて、色・声・香・味・触・法という外の世界である六境を受け入れていく感覚作用を「受」といいます。
外の世界を、鏡がものを映すように、映っただけであとに何も残さない、とらわれのない、こだわりのない心が望ましいのでありますが、そういうこだわりのない感覚作用を、正しい感覚すなわち「正受」といいます。また、鏡のような汚れのない心を「六根清浄」と申します。
一般的に、念仏三昧、読書三昧、釣り三昧などといって、何かに夢中になっていることを、何々三昧と言いますが、私たちはその場その場、そのことそのことにあたって、精神を一つのことに集中して乱さないことが大切であります。仕事でもスポーツでも芸術でもこの精神の統一、集中することによって立派に完成されるのです。
般若心経に「心に礙なし、礙なきが故に恐怖あることなし」とあります。礙のはさまたげる、礙は邪魔するという意味で、心無礙で心にひっかかりがない、障りがない、つまりこだわりを捨てた心を言います。するといっさいの恐怖はどこかに消え去り、大空のようにカラッと晴れ渡るということを、また、天地と我とが一つであるという自覚を白隠禅師は「三昧無礙の空ひろく」と歌われたのでありましょう。
「四智円明」以降は次号に致します。
【前のページへ】 | 【過去の善勝寺だよりへ】 | 【次のページへ】 |