善勝寺だより 第52号 平成17年9月14日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その20無相の相を相として、
行くも帰るも余所ならず。
原子の世界から眺めれば、山も川も草も木も鳥も花もすべて原子であります。すべては原子の集積であり、エネルギーの流れであって何も形はない、全く無相であります。
しかし、我々の眺める自然界には、山も川もあり、草も木も鳥りも花もあり、さまざまな物が相を現し万象羅列しております。『無相の相を相として』 いるのであります。
人間も同じ原子でできているのだから、男も女もない、善人も悪人もない。全く平等で差別のないのが本当でありましょう。その差別のない人間群が、仮に大臣になったり門衛になったり、巡査になったり盗人になったり、運転手になったりお客になったりして、さまざまな相を現し、それぞれの立場を守り、それぞれの営みをしているのであります。
禪の言葉に「自ら瓶を携え去って村酒を沽い、却って衫を着け来たって主人と作る」という句がありますが、おもしろいではありませんか。貧乏徳利を提げてドブロクを買いにゆく姿は、どう見ても男衆であります。しかし帰ってきて着物を替え、羽織を着てお客さまの前へ出れば、どうしておしもおされもせぬ主人公であります。家では下男になって風呂たきをするが、会社へ出れば立派な社長さんである。時には小僧になって庭掃きするが、時には紫の衣を着て大導師を勤める。朝のうちは雑巾がけしたり洗濯したりしている家庭婦人だが、夜になると盛装して社交界の花形にもなる。そういうところに、人生のおもしろ味があるではありませんか。人間の自由があるではありませんか。こうなくてはならぬという決まった形や姿が人生にあるはずはありません。『無相の相を相として』であります。
私どもは日々、笑ったり、泣いたり、怒ったり、全く七面鳥のように顔を変えますが、いったい私どもの本当の顔は、どの顔でしょうか。
自分の顔の決定版とでも言えるようなものがあるものでしょうか。おそらく、これが自分のほんまの顔だなどと言えるものは、なにもありますまい。常に動いて変わっているのです。
しかし、その時その時の顔が、その時その時の真実の顔だと言わねばなりません。決まった相はないところに、その時その時の相を現してゆく、つまり『無相の相を相として』日々を暮らしている次第であります。
天竜寺の開山様である『夢窓国師』という方は若い雲水時代から、大成された後まで、実によくお住まいを替えておられます。鎌倉・常陸・下野・甲斐・京都・土佐と実に転々とされたので、ある弟子が「国師ともあろう大徳がどうしてそう住所を変えられるのか」と尋ねたら、「わしはこの世界を自分の家だと思っておるので、どこへ行っても住所を変えたように思わぬ。皆が座敷におろうが台所におろうと、家の中を離れぬのと同じことだ」と答えられたそうですが、まことに天地をわが天地とし『行くも帰るも余所ならぬ』境地に暮らされたと申すべきでありましょう。
禅語の「歩々是れ道場」「途中に在って家舎を離れず」も同じ意味で、無念無相であるが故に全世界が自分の家で、どこへ行っても誰にはばからず、遠慮なく起き伏しができ、全人類が皆わが親子兄弟で、他人は一人もいないと分かって、思うままに気がねなく振る舞えたら『行くも帰るも余所ならず』ではありませんか。
(故山田無文老師の著書を参考にしました)
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