善勝寺だより 第50号 平成17年3月10日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
|
(2ページ) |
東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その18いわんや自ら回向して、直に自性を證すれば、
自性即ち無性にて、すでに戯論を離れたり。
ましていわんや、座禅によって自分を深く洞察し、直接的に自分の生まれながらの本性を、はっきりと見届けるならば、自分のものとすべき本性さえも、もともと何もないものだと知って、いっぺんにつまらぬ自己主張など止んでしまうであろう。 (西村恵信師訳)
回向と言う言葉はよく聞かれることと思いますが、「パリマーナ」というサンスクリット語からの訳で、向きを変える、振り向ける、向こうに回してやると言うことです。
ある人が積んだ功徳を別の人に振り向けると言うのが一般的な回向の意味で、お経を読んだ功徳を、故人の冥福のために振り向けるというのが、法事の趣旨となるわけです。
しかし、ここでいう「自ら回向して」というのは読経するとか座禅をすると言った善の功徳を自らの悟りの方向へ全て振り向けていくという意味です。
仮に、マイホームを手に入れるという目標があれば、毎日毎日一生懸命働いて月給をもらう、そしてその金は、遊ぶことや呑むことをを我慢して、マイホームのために回す事になります。
この目標を自分自身の安心を得ることに集中すると言う意味です。
すると元もと自分自身が無であることを知ることになります。
「わたくしには、まだどうしても安心ができません。なんとかお示しを願えませんでしょうか」。二祖慧可は、真心をこめて訴えました。
「その安心できぬという心を、ちょっとここへ出してみなさい。安心させてあげよう」。達磨大師は静かに答えられました。
「出せと言われても出せません。心というものは全く不可解なもので、つかまえようと思うと、どこにもないのです」。しばらく考えていた二祖がこう申しました。
「無い!それで安心ができたじゃないか」。達磨大師のこの力強いお示しで、慧可は忽然として悟りを開いて大安心を得、二祖となられました。
六祖慧能は「本来無一物」と申され、達磨大師からの禅を受け継がれたのです。
自分がある、財産がある、地位がある、何がある、と「有」が大きな荷物であり、全ての苦悩はこの「有」から出てくるのに、「有」がないと生きられないように皆思っています。
全ては「無」だと聞かされると、安心どころかかえって不安を感ずるでありましょう。しかし一切が無に帰する事実はどうにも動かせません。そこでこの「無」の中に、新しい天地、自由な天地のあることを発見する必要があります。そこに「安心」の場所があります。
自分と他人と、自分と社会と、常に対立の世界にあって、しのぎを削って権利を争うのでなく、夫が妻の立場になり、妻が夫の身になり、親が子の気持ちになり、子が親の心になり、社長が工員の気分になり、工員が社長の地位にもなってみて、お互いに理解し、相いたわり、相和してゆける生活こそ、望ましいわけです。それは自性が無であること、無は普遍平等であることを理解することによってのみ得られるでありましょう。
【前のページへ】 | 【過去の善勝寺だよりへ】 | 【次のページへ】 |