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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第48号
平成16年9月13日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『白隠禅師座禅和讃』その16

 

     一座の功をなす人も、積みし無量の罪ほろぶ、
       悪趣いずくに有りぬべき、浄土即ち遠からず。

たとえひとときの座禅でもこれを実践するならば、過去に積み重ねた計り知れない罪は消えて無くなる。
 迷いと苦しみの世界などどこにありえよう、安らぎの世界は、いまや遠い世界ではない。

(西村恵信師訳)

施餓鬼会での法話に、通願と別願の話をしましたが、人生の目的は人格を完成させることであり、これを通願と言います。オリンピックで金メダルを取りたい、学者になってノーベル賞をもらいたい、女優になりたい、国会議員になりたい、これらは別願と言います。別願は人生の究極の目的ではありません。病気や怪我でオリンピックに出場できなくなることも当然あります。別願だけで通願を忘れた人ならそのことだけで人生が終わってしまいかねません。

譬えガンの宣告を受けても、また終身刑を処せられても、病院や拘置所を唯一の道場として通願である人格の完成を目指して真剣に取り組んでいる人もいます。

問題は、人生の目的が人格の完成にあることは分かっても、われわれ凡人にそれができるかどうか、と言うことです。

キリストは、「赤子のような心にならなければ天国に入れない」と言っていますし。

一休さんは「生まれ子がしだいしだいに知恵づきて、仏にとおくなるぞ悲しき」とうたっています。

赤ん坊の無心は、全く天使であり、そのまま仏であります。誰しもあった自性清浄心と言われる、無心に帰ることが禅の悟りであり人生の目的だと言うことになります。

なかには、長年座禅をしても悟れない人がいっぱいいるのだから、足の痛さをこらえて座禅したぶん損だ、と考える人もいます。

永代供養の善勝寺そこで禅では、「一寸座れば一寸の仏」「一日座れば一日の仏」「一生座れば一生の仏」といわれ、凡夫のままで、迷いのままで、救われる教えです。

人格を完成させる唯一の方法が座禅というわけではありませんが、阿弥陀仏を念じて「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで一切の悪業が消滅して浄土へお参りできると信じられるのであるなら、一座の座禅をして成仏できると信じられないことはないでしょう。

いやむしろ科学を基盤として生活する現代人には、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できると言うよりも、一座の座禅をすれば直ちに人間性の真実にふれて救われるのだと言う方が、よほど納得がゆくのではないでしょうか。

人間性の真実が仏であると分かったら、そこには悪趣、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅と言われる世界はことごとく消え失せ、この現実の世界が、このまま浄土となるのであります。

(つづく)

善勝寺では座禅会をしないのですかという意見も聞かれるのですが、定期的な座禅会をするには至っていません。

しかし今後は法要のつど五分間位い静かに座るという、一座の功を積んで頂くようにしたいと考えています。

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