善勝寺だより 第47号 平成16年6月28日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その15念仏懺悔修行等、
其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。
今回は『懺悔』がテーマです。一般にはザンゲと言いますが、仏教ではサンゲと発音します。
いかなる宗教でも、反省のない宗教、懺悔のない宗教はありません。神道ではこれをオハライとかキヨメと言い、キリスト教では悔い改めと言い、仏教では慚愧懺悔と申します。
慚愧は罪を恥じることを言い、慚は自ら罪を造らないことで、愧は他の人に罪を造らせないようにすることです。
禅宗には古来『授戒』という儀式があり、私達が仏の戒を受けて、仏弟子にして頂く尊い儀式ですが、それには三世三千諸仏のお名前をいちいち唱え、慚愧懺悔六根罪障、滅除煩悩滅除業障と言いながら礼拝します。この懺悔の行を1週間続けますと、ちょうど汚れた着物が洗濯できたように清浄な心になります。その清浄無垢な心の上に仏の尊い戒を授けて頂きます。(余談ですが、この受戒の儀式も1週間から3日になり、残念なことに今では1日受戒といわれる簡単なものになりました)
「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゅうし已る、真に是れ諸仏の御子なり」と唱えて頂き仏弟子の仲間入りできるのです。
この懺悔にも深い浅い、人によって様々ですが、ただどんなに深い反省をし、後悔の念に苦しんでも世間的(有限的)な懺悔では救いはありません。無限なるものの懐に飛び込むことによって、神・仏と一体となる境地を得て初めて真の懺悔となり、滅罪となります。即ち禅定という座禅こそ、或いは念仏こそ真の懺悔であります。
「一切の業障の海は、皆妄想より生ず。もし懺悔せんと欲せば、端座して実相を念ぜよ。衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」と経にあります。つまり座って真実なる自己を見つめることが懺悔であり、またその罪も消滅すると説かれています。
これまで述べてきた仏行の他、まだまだ多くの善行はありますが、詰まるところ全てが、禅定というひとつの世界に入ってしまうというのであります。
逆に言えば、禅定という一事が体得できれば、全ての行いが菩薩行であるといえます。
「禅は諸道の根元なり」と言われて茶道・剣道をはじめ一切の芸術芸道の奥義が全て皆、この禅定の2字に帰するのであります。東洋文化はもちろんのこと、宗教道徳の世界のみならず、社会生活のあらゆる面が、禅定を離れてはあり得ないことを、「夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり」と、褒め称えられたのであります。
室内は禁煙とします
役員会での決議ではありませんが、本堂・書院(客殿)など室内での喫煙はご遠慮頂くことと致しました。
不特定多数の人が利用する場所での喫煙は制限するとの考えが定着してきました。お寺も例外ではありませんので、ご理解ご協力の程宜しくお願い申し上げます。
尚、喫煙場所は、書院への上がり口の2カ所。灰皿のある場所と致します。
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