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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第44号
平成15年9月16日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『白隠禅師座禅和讃』その12

 

     布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、
      其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。

他に施しをしたり、自分に厳しく戒を守ったりする仏教の実践(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)。あるいは念仏を唱えたり、自分の行いを懺悔したり、身をもって仏道の修行をするなど、種類さまざまな諸々の仏道の実践も、結局はこの禅定(座禅)というもののなかで成就されるのである。(西村恵信師訳)
今回は『忍辱・精進』のところに進みます。

私が善勝寺に住職して間もなく、平林寺の老師に、この「忍辱・精進」という言葉を念頭に置くよう諭されたことがあります。

忍辱という言葉は、他人から辱めを受けて、それを歯を食いしばって我慢するという意味ではなく、自らが振り返ってみて、恥ずかしさに耐えないような、そういうものを、勇気を持って見据えて、そこから脱皮してゆくと言うことです。

誰にもあることだと思います。自分がやってきた事柄で、思い出したくない、しかし、つい思い出してしまうと、鼻歌でも歌って自分をごまかさなければ耐えられないと言うことがたくさんあります。

ごまかしたくなるような自分の醜さ、恥ずかしさ、そういうものを見据えてゆく勇気、これこそ真の忍辱であるといえるでしょう。
 この忍辱があって初めて、自らに向かって「発憤」して行くということがあり得ます。

発憤というのは「憤りを発する」 と書きます。腹を立てるということですが、同じ腹を立てると言っても、この発憤というのは、非常に良いことです。なぜなら、この怒りは「俺としたことが」「私としたことが」と、自分自身に腹を立てて、そして自分自身に鞭打つので、『精進努力』という、建設的な方向に進んでゆくからです。

これに対して、自分にとって不都合なこと、羞ずべきことがあれば、「あいつのせいで、やむなくやったんだ」「こいつのせいで、こうなったんだ」
と、悪者を自分以外のところに逮まえて、これに対して腹を立てていく。これを仏教の言葉で三毒の一つである『瞋恚』といいます。

発憤も瞋恚もともに腹を立てることですが、向かう方向が自分自身に向かっていけば『精進』につながっていき、人に責任転嫁して、それを攻撃する方向に行きますと、『瞋恚』となり、「あいつのために、こいつのために、社会が悪いから、政治が悪いから」というふうになって、しまいには、「俺一人頑張ったってしょうがないじゃないか」とシラける方向に心は動いていきます。このシラけた状態を「懈怠」といいます。いま若者の多くがシラけた、やる気を失っているのは、みんな評論家のように他人ばかりを批判し、他人に対して怒りをぶつけていった結果であります。

心が内に向かい、発憤し精進する方向に軌道修正しないと、一人ひとり本当の幸せをつかむことができないばかりか、社会全体がマイナスの方向に向かってしまうことでしょう。

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