善勝寺だより 第36号 平成13年9月14日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その4衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
自らが仏であるにもかかわらず、私たちは自分自身の中に本当に頼るべき拠り所を見つけることができない。自分がダメだというこの思い込みが、あまりにも深いからです。そして自分が信じられないゆえに、私たちは遠くの方の何かに期待し、それによって自分を充実させ、自分を豊かなものにしようと考えてしまう。
しかし、思い返してみてください。逆説のように聞こえるかもしれませんが、皆さんが本当に充実していると思った瞬間とは、自分自身を忘れてしまっていたときではないですか。自分がなくなった瞬間こそ、一番充実していたと後に感じられるものなのです。
スポーツでも遊びでも、音楽鑑賞でも、仕事や家事でも何でもそうですが、今日は一日充実していたと思ったときは、スポーツならそのスポーツだけ、音楽鑑賞なら音楽だけがそこにあり、自分は無になっていたのではないでしょうか。自分を忘れていたとき、その時こそ、逆にめいっぱい自分を充実させていたのだと思うのです。
本当の幸せというのは、充実することではないでしょうか。充実したとき、私たちはそれが苦しみや痛みや寂しさを伴っていようと、「幸せ」という思いを噛みしめることになります。たとえ泣くことになろうと、寂しさに気が狂いそうな思いをしようと、本当に充実した悲しさ寂しさであるならば、その人はその時期を振り返って、「自分は人の何倍も生きることができた、人生を非常に深く味わって生きることができた」と満足するに違いありません。
第一、「満足」という言葉は「充実」という言葉と同じことですから。
ところが、そういう幸せというものを忘れてしまって何か自分が考えている特定のものを手に入れることが幸せだと考えたとき、私たちはそれを自分の身近に見つけられなくて(自分自身の中に見つけられないのだから、日常的に自分の周辺にあるものにはなおさら見つけられなくて)、遠いところに求めようとする。
これをカール・ブッセは次のように見事に歌っています。
山のあなたの空遠く、「幸」住むと人のいう
ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ
山のあなたになお遠く、「幸」住むと人のいう
(上田敏訳)
自分がそう信じているのではない、人が言っているのです。山の遠くの「向こう側」に自分が今もっていない「幸」というものがあると人が言う。自分を信ずることもできないし、自分の現在持っているものの中に幸せを見出すこともできない人たちは、そういう人の言葉を聞いて「幸」を求めて出かけて行く。しかし自分の信念として、山の向こうへ一人で出かけていくだけの勇気はない。
誰かを誘って、一緒にそれを尋ねて行ってみたけど何も幸せを見つけることがでず、涙しながら帰ってきた。
それでその虚しさに気づいたのかというと、そうではなく、自分が出かけて行った向こうの山は近すぎた。もっと遙かかなたの山だったら「幸」があったのにと人が言う。そして、その言葉にだまされる。
「遠く求むるはかなさよ」です。
(故 盛永宗興老師の著書より)
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