善勝寺だより 第34号 平成13年3月12日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』
衆生本来佛なり
座禅和讃は、「衆生本来佛なり」という言葉で始まります。
衆生、つまり生けとし生けるもの、本来佛である。私たちはすべて、一人の例外もなく、もともとは佛である。白隠さんはそういうものです。
それは信じ難いことです。我々は、迷い、苦しみ、つかの間の快楽に操られて、ありとあらゆる愚考を繰り返しています。自分たちの生態、その生活のありさまを、素直に振り返れば、自分が佛であるなどとは、ほとんど悪い冗談としか思えない。
しかし、白隠さんは「衆生本来佛なり」といい切る。白隠さんほど、人間の弱さを徹底して見つめた人はいない。前回紹介したように、決してはじめから優等生ではなかった白隠さんです。人間がいかに弱く、いかに愚かで、失敗ばかり繰り返すものであるか、自らの体験として、知り抜いている。その白隠さんが、「人々は、みんなもともと佛なのだ」というのです。
この「佛」という言葉は、「ほどける」という大和言葉に由来するといわれています。すなわち、結び目がほどける。縛られているロープがほどける。閉じ込められている檻がほどけて解放される。一切何ものにも拘束されることなく、何ものにも縛られず、生き生きと働いて、何にでもなり得る大いなるもの。それを佛といっているのです。
佛(ブツ)は、もともとインドの言葉です。「Budda」を音訳して「仏陀」としたことに由来するもので、「悟れる人」の意味があります。では、何を悟ったのかといえば、この限られた肉体に縛られ、限られた条件の中に閉じ込められているように思っていた自分が、実際には、限りなく自由な『いのち』の現れであった。この事実を自覚すること、それが「悟り」であり、この事実を悟った人を「佛」と言ったのです。
この世に存在するすべてのものは、形の中に閉じ込められ、名前に閉じ込められ、それぞれの特殊な能力に閉じ込められているように見えます。
人に批評された言葉、あるいは自分自信で感じたこと、そういうものから、「俺はこういう人間だ」「私はこういう性質だ」と思い込む。さらには、「こういう学校でなければだめだ」「こういう仕事でなくては」「こういう相手でなければ」「こういう親でなくては」「こういう子でなければ」などど勝手に決め込む。この決め込んでしまった状態、思い込むことによって非常に不自由な心境になっている状態を、「衆生」というのです。
しかし、この衆生の本質は、決して限られた縛られた、不自由なものではない。認識を徹底させ、透徹した目で見ますと、それらはすべて、限りなく自由な『いのち』の現れに他ならないのです。
「衆生、本来、佛なり」とは、こうした事実を実現しようとしたものに他なりません。
(故 盛永宗興老師の著書より)
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