善勝寺だより 第105号平成30年12月20日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
祈りの『延命十句観音経』
円覚寺派管長 横田南嶺老師著
常(じよう)楽(らく)我(が)浄(じよう)
前回「常楽我浄」のうち、常と楽でしたので、今回は「我」と「浄」です。
「我」。自分は一人で生きている、何でも自分の思うようになるという思い込みです。人間、調子の良いときにはそんな気にもなりますが、自分一人では生きていけませんし、世の中自分の思うようにはいかないものです。決して一人ではなくて、お互いいろんなところで関わり合って生きております。それを「無我」ともうします。
最後が「浄」。清らかです。二人一緒になって、あこがれの人と暮らして清らかな暮らしを夢見ます。実にそれは夢です。現実は、「浄」清らかではありません。「不浄」です。毎日毎日掃除洗濯をしなければなりません。
お釈迦さまは、このように世の中は無常である、永遠なものはない、もろくはかない。楽ではない苦である、苦しみに耐えねばならない。我の思うようには行かない、不浄であると説かれました。
これだけ聞かされますと、だから仏教は暗くて嫌だと、お若い人が敬遠なさるのも道理かと思います。クリスマスで楽しくやって、永遠の愛を誓いましょうと言っている方がよほど楽しかろうと思われます。
しかし、お釈迦さまは、真理をありのままに見つめて、無常の中で何が起こるか分からないと心して生きましょう。楽しい事ばかりでは無い、むしろ苦しみを耐えて生きる事に幸せがある。我独りでは無い、お互いに助け合って、わがままを通さずに譲り合って生きましょう。不浄ですから、お互いに毎日きれいにするように心がけて生きましょう、とお説きになりました。
無常である、苦である、無我である、不浄であるとみることは、ありのままにものを見ることにほかなりません。その方が肩の力が抜けて楽になります。
ありのままにみる、じつはこれほど難しい事はありません。どうしても私たちは自分の都合の良いようにものを見ています。
ありのままにものを見る智慧は、本来私達がもって生まれているものです。
お釈迦さまのお悟りは、あらゆるいのちあるものはみな仏心をもっているということに尽きます。この仏心とは、とりもなおさず、ありのままにものを見る智慧と慈悲とに表すことが出来ます。
ありのままにものを見る智慧とは、心は鏡のように、どんなものでもありのままに写し出すというものです。
それから次に、あらゆるいのちあるものはみな平等であるということです。
私達は普段何を見ても差別、区別して見てしまっています。
しかし、真理はみな平等です。いのちあるものは、それぞれの姿形の違いはあっても、みな平等だと分かる智慧です。
その次には相手のことがよく観察できる智慧です。相手の様子がよく分かる智慧です。そうして見えてきますと、その時その場でどう働いたらいいか具体的な智慧が働きます。
仏心は智慧と慈悲です。究極は慈悲の心を働かせてゆくことです。
「慈」は慈(いつく)しみ、思い遣り、相手に何かをしてあげたい、何かを差し上げたいと思う心です。
「悲」は悲しみです。相手が悲しんでいるのを見て一緒に悲しむ心です。そうして相手の悩み苦しみを何とか取り除いてあげたいと思う心です。
つづく |
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