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善勝寺だより 第67号

平成21年7月1日発行
発行責任者 明見弘道
(2ページ)
善勝寺だより第67号

東光山ミニ法話

 『般若心経』 その17

 

般若心経

菩提薩は、お経ではボーダイサッタと読んでいますが、インド語ではボディサッタヴァ。菩提は自覚、薩は丈夫という意味です。仏道を求むる衆生に勇健なる志がある。そこで菩提薩という。と辞書にあります。求道者つまり菩薩様のことを言います。

これまで多くの菩薩達がこの「般若波羅密多」を実践され、心にわだかまりがなくなりました。「菩提薩は般若波羅密多に依るが故に、心に礙なし」。礙は、覆い妨げるもの、心を覆うもの、こだわり、障りとなるもの、また、邪魔をするものと言う意味もあります。

心無礙は、心の中に何のさしさわりもない、何のわだかまりもないことです。

[すべてこの世の中は、自分というものを捨てきれないところから、いろいろなさしさわりが生じてくるのであります。自分を捨て去り心の本体を自覚すれば、心にいらざる思いごとがなくなるのであります。](無文老師)

[「いのち」本体の感覚に戻れば「私」の都合は関係なくなるんですから、突っかかりも引っかかりも妨げもなくなるに決まってます。](玄侑師)

礙なきが故に恐怖有ること無し」 [般若の智慧が体得できれば、心にいらざる思いごとがなくなり、さしさわりがなくなるならば、恐ろしいことも、怖いこともなくなります。死にたくないと思うから、殺されはせんかと恐れ、金が大事だとしがみついておるから、盗まれはせんかと恐れるのが人間であります。ましてや、権力や名誉にこだわって人と争う者は、寝ても覚めても恐怖の連続であります。

勝てば即ち怨みを生じ、
   負くれば即ち自ら鄙し。
 勝負の心を去れば、
   争い無くして自ずから安し。
 寝ても覚めても安らかなり。

(法句経)

菩薩には、人に勝ちたいなどという邪心がありませんから、恐怖を感じることは少しもありません。](無文老師)

[「恐怖」も「私」が感じていたのですから当たり前ですね。自分の都合を第一に考え、概念で念入りにでっち上げた「私」が勝手に「恐怖」を感じたり「死にたい」と思ったりする。本当に人間の脳って厄介ですね。しかしそんな「私」の思いを真に受けて、本当に自殺したりするのですから……。

死にたいと思ったら、ビルから飛び降りるとか電車に飛び込むとかしないで、一度水にでも飛び込んでみればいいと思いますよ。すぐにわかるはずですよ。死にたい「私」に関係なく、「からだ」は藻掻くでしょ。「死にたい」なんて思っていたのは脳細胞の一部が勝手に作り上げた「私」だけだった、ほかの細胞はみんな生きたがっていたって、すぐに判明してしまいますよ。

だからこの「私」を「いのち」そのものと錯覚したり、あるいは「私」の思いで「いのち」や「からだ」を支配しようというのが、一番困った勘違いなんです。難しい言葉で云うと「倒夢想」ですね。](玄侑師)

心無礙は、般若心経の中で特に印象の強いフレーズとして私の頭にインプリントされています。読経の時、このところで磬(かね)を打つことになっているせいかもしれませんが、心に礙無しは大好きな言葉であります。

科学者の柳澤桂子さんは、

 ひとはなぜ苦しむのでしょう……
   ほんとうは 野の花のように
    わたしたちも生きられるのです

と、心訳般若心経にうたっています。

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