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善勝寺だより

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善勝寺だより 第66号

平成21年3月10日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『般若心経』 その10

 

 無智亦無得 以無所得故

「智も無く、亦得ることも無い。得る所無きが故に」

般若の智慧とは、どんなものであるか、鏡のようなものである、珠のように輝いているものだ。などと思ってしまったら、もうそれは般若の智慧ではありません。また、何もないことが分かった。これも、般若の智慧ではありません。そこで、「智も無し」と説かれています。

般若の智慧(悟り)どのようにしたら得ることができるか、得ることができたら素晴らしいだろう、などと考えたりしがちですが、受け取ったり与えたりできるようなものは悟りではなく、得ることも失うこともないのが真の悟りでなければなりません。これで分かったなどと執着し、これでいいのだと、得るところをつかんでるようではいけません。だから、「得ることも無し」と示されてあります。私たちはこうして空気の中で生きておるのでありますが、空気があることを意識はしておりません。魚は水の中におりながら、水のあることを意識しておりません。般若の智慧の真っただ中にいるということは般若の智慧も意識されません。(以上は、故山田無文老師の著書を参考にしましたが、玄侑宗久師はここのところを次のようにのべておられます)

般若とは裸の「いのち」が本来もっている生命力への気づきでもあります。「空」というのは、「私」というものを抜きにした事象の本質的な在り方なのです。それを感じる主体は自他の区別がつかない状態で全体に溶け込んでいます。

「私」が生まれる前から、「いのち」は生きていました。生まれて間もない赤ん坊でも、熱ければ手を離しますし、食べたければ口を開きます。動物の子供が母親の乳首を探す能力など本当に見上げたものです。

DNAの観点に立てば、この地球上に生命が発生して以来、三十五億年もの長きにわたって「いのち」は途切れることなく展開してきました。母親の胎内ではその歴史が個体発生として繰り返されました。永代供養の善勝寺

そんな「いのち」を、遅れて発生した「私」が支配しようと言うのが、土台おかしいのです。

智慧を得る、という場合の主語は、どうしても「私」になります。そうではなく、ここでいう「般若」は「いのち」そのものの力なのです。「智も無く、亦得ることも無い」ということであり、「いのち」はこれ以上得る必要がないほどに、すでに「足りて」います。「得る所無きが故に」なのです。

(最後に再び無文老師の言葉です)
 この世の中には、自分のものといえるものは何一つとしてない。家も財産も、学問も技術も、自分のものではない。善悪の業さえも、全ては因縁によって、しばらく仮に自分のところにあるだけであって、自分のものであるものは塵一つない。この自分の体さえも、四大が仮に集まっておるものであって、自分のものではないのだ、と分かることが般若の智慧であります。

〈つづく〉
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