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善勝寺だより 第64号

平成20年9月15日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『般若心経』 その8

 

 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。

仏教の基本の教えは、『三法印』つまり諸行無常・諸法無我・涅槃寂静。これに、一切皆苦を合わせて『四法印』と云います。次に、人間の苦しみ悩みがいかにして成立するかということを考察し、その原因を追及して十二の項目の系列を立てた『十二因縁』。また、苦・集・滅・道という言葉で表される『四諦・八正道』であります。

これまでの「般若心経」の解説は「三法印」、今回は「十二因縁」、次回が「四諦」に関することとなります。

仏教学の講義みたいで、おもしろくありませんが、一応基本ですので、十二因縁を簡単に解説します。
一、無明。二、行。三、識。四、名色。五、六入(六処)。六、触。七、受。八、愛。九、取。十、有。十一、生。十二、老死。(以下、玄侑宗久師の解説を一部要約して引用します)「要するに苦の発生の根本原因は無明、即ち空という実相に対する無知なのだとされます。無知ゆえに、間違った方向へ識を進めてしまう力である行が生まれ、それに従って識が染まります。ここで行というのは、簡単に云えば私を形成する力と考えていいでしょう。この私の芽が、それ以後の流れを苦の方向へ運ぶ力になっていきます。認識の対象が名色。眼耳鼻舌身意という六種の感覚にはたらく場六入(六処)が、識を伴って認識対象の名色に触れる。それも基本的には行の力によってなされるのだとされます。

蝕というのは、対象と感覚機能と意識との出会いによる協力状態といえるでしょう。そこに受が生まれます。感覚したその中から、都合のよいものをいつの間にか選択してしまう盲目的な感情が愛で、それをベースに感覚や認識や感情をまとめ上げる力が取です。むろんそれらの流れの底流には「私」の芽である行や、それに染まった識が継続的に関わってい永代供養の善勝寺ます。ですからそこには自己愛にねざした生存欲求である有が生まれます。それによって生が営まれ、やがて老死になりますが、老死とは現実の苦しみと今後予想される苦しみと言うことになるでしょう。 

以上が苦しみの生まれる順番(順観)逆に無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識が滅し、と辿るのを逆観と言います。」

以上のような、我々の存在を説いた、十二因縁も、「空」観に徹した、高い立場から見ると

無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。

となります。この、乃至と言う言葉は、十二因縁の二から十一番目まで、行もなく、また、行の尽くることもなし。などなどを省いていることを現しています。

最後に無文老師の言葉を紹介します。

「空の世界、無心の世界が分かるならば、もとより生死はないのであるが、生死があっても何とも心に邪魔にならん。病気があっても心の邪魔にならん。災難があっても心の邪魔にならん。そういう世界が空という世界であります」

〈つづく〉
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