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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第46号
平成16年3月12日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)
永代供養の善勝寺

東光山ミニ法話

 『白隠禅師座禅和讃』その14

 

     念仏懺悔修行等、
       其品多き諸善行、
          皆この中に帰するなり。

今回は、『念仏』ということについて述べることとします。

あらかじめおことわりしておきますが、この「白隠禅師座禅和讃」に関する本は多くあり、これまでは主に、故盛永宗興老師の著書を参考にしていましたが、今回からは故山田無文老師の『座禅和讃講話』を参考にしています。

浄土三部経の一つである『観無量寿経』の中に「われわれが仏を憶念し観相する時は、仏の三十三相八十随形好が、さながらわれわれの心の中に現れてくださる。その時、われわれの心がそのまま仏であり、われわれの心が仏になってしまう』と記されてあります。「是の心是れ仏なり、是の心仏を作る」とあります。「是心是仏、是心作仏」であります。禅でよく使われるこういう大切な言葉が、浄土門の教典から出ていると言うことは、おもしろいではありませんか。浄土の信心も、禅の悟りも、その心境は同じところに帰するのだと思います。   

親鸞聖人も、御和讃にうたっておられます。永代供養の善勝寺

 信心よろこぶその人を
  如来とひとしと説きたまう
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり

と、信心を喜ばせていただく人は、煩悩のまま悪業のまま、如来と少しも異ならぬ心境に遊ばせていただけるのだとうたわれたのであります。いやそれどころか、信心がそのまま仏だと言われるのであります。

「大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」は『涅槃経』にある言葉ですが、信心が決定するとは、私たちが生まれたままに持っている仏性を自覚することにほかなりません。永代供養の善勝寺

ここにいたりますと、浄土門の信心も「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて」とうたわれる『座禅和讃』の安心も、まったく同一味の真理だと言うことになります。だから親鸞聖人も「罪障、功徳の体となる。氷と水の如くにて、氷多きに水多し、さわり多きに徳多し」とうたわれるのであります。

『遺教経』には「心の畏るべきこと、毒蛇・悪獣・怨賊よりも甚だし」とありますが、私たちの心は、いつ何をやり出すか分からない存在です。また、命も、家族も、財産も、身分も、地位も、社会も、国家もあてになりません。その上、自分自身もあてにならないとしたら、われわれは何を頼りに生きたらよいでしょうか。その当てになる、頼りになる最後のものをつかむことが宗教というものでありましょう。

親鸞聖人は阿弥陀様が絶対だとか極楽浄土が真実の世界だ、などとは言わずして「念仏のみぞ、まことにておわします」と申されたことは、意味甚深で深く味わうべき言葉であります。

念仏とは仏を憶念することであり、仏を憶念すれば「是の心是れ仏」であり、自分と仏がひとつになります。このことを真宗では「見真」といい、禅宗では「見性」といいます。

故山田無文老師は私が花園大学で学んだときの学長でありましたが、

「座禅とは体で唱える念仏であり、念仏とは口で座る座禅だ」と度々申されておられたことを思い出します。

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