善勝寺だより|選ぶ時代の選ばれている寺『永代供養の善勝寺』どなたでも納骨できる、永代供養墓『東光山合同船』

善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第38号
平成14年3月12日発行
発行責任者 明 見 弘 道
  (2ページ)

東光山ミニ法話

『白隠禅師座禅和讃』その6

 

     長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。

これは『法華経』の中に出てくる譬え話によるものです。

簡単にその説明をしますと、昔、インドに一人の長者があって、晩年授かった一人息子をだいじに育てておりましたが、ある日この子が行方をくらまかしてしまいます。門から迷い出てそのまま帰って来なかったのです。長者は必死になって何年も子供の行方を捜しましたが、どうしても探し当てることができませんでした。

ところがある日、門口に一人の若い乞食が物乞いにやってきたのです。姿、形は変わっていても、長者にはすぐにそれが自分の息子であるとわかりました。しかし、長年乞食をしていたらしい子供に、いきなり長者が「おまえは俺の子供だ」といっても、理解できず、ビックリして逃げ出すだろう。そう思った長者は、まず自分の家の下働きをさせ、だんだんと仕事の範囲を引き上げていって、最後には自分の財産をその若者に切り盛りさせました。

そして、立派にやってのけられるようになったとき、長者は王侯貴族を呼び集めて、パーティーを開き、その席上で、「実は、この支配人が、子供のころ行方を見失ったむすこです。これを跡継ぎにします」と宣言したのです。

ざっとこれが『法華経』に説かれる「長者窮子」というたとえ話です。

長者とは「仏」のことです。仏の家に生まれ、仏の〈いのち〉を受け継いでおりながら、小さなときに外に遊びに出て迷子になった息子。自分が仏の子であることを完全に忘れてしまった息子。そして、長年の乞食生活の中で、乞食の習慣、乞食の考え方、乞食の発想の仕方が身に染みついてしまった息子。これは私たちの姿を現しています。

私たちは、自分たちが、本来仏であることを忘れてから、どれほどの時がたったことでしょう。我々はその間、乞食のように生きてきたのではないか。今でも、私たちは乞食のように生きているのではないか。外面的にはなに不自由なく、あるいは金持ちでさえあるかも知れないが、精神的には、その心の深奥では、依然として乞食ではないのか。永代供養の善勝寺

心が乞食とは、前号で述べた氷の状態になっていることを意味します。「自分はこんなものだ」という思い込み、それが乞食になっていることです。

心が乞食になってしまって、「自分は駄目な奴だ」と思いこんでいる人々に、いきなり、「あなたは仏様だ」といったら、「何を人を小馬鹿にしたことをいうんだ」と、離れていってしまうでしょう。そこで、「おまえは私の子だ」というのを控え、段階を追って乞食の青年を徐々に育て上げていった。

これがいわゆる「方便」ですが、仏教の実践の場でいえば、さまざまな手段、方法を用いて、修行を行うことを意味します。そして、最後にパーティーを開いて、自分の息子を披露したのは、長年の修行の機縁が熟して、ついに大きな自覚に到達する瞬間を表現しています。

(故 盛永宗興老師の著書より)

前のページへ 過去の善勝寺だよりへ 次のページへ

Copyright © Zensyouji. All Rights Reserved.