善勝寺だより|選ぶ時代の選ばれている寺『永代供養の善勝寺』どなたでも納骨できる、永代供養墓『東光山合同船』

善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第37号
平成14年1月7日発行
発行責任者 明 見 弘 道
  (2ページ)

東光山ミニ法話

『白隠禅師座禅和讃』その5
永代供養の善勝寺

 

     たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。

「のどが渇いた、のどが渇いた」と叫んでいるその人は、実は飲めばいくらでも渇きをいやしてくれる美しい水の真っ只中にいる。水の中にいながら、水がなくて喉が渇いたと叫んでいる。何と悲しく愚かなことではないか。

しかしこれが、我々の実状なのです。人間の現状は、こうして愚かにして悲惨な状態にある。そうでなければ、なぜこんなに世界は不幸なのですか。なぜ一方では食べ残した食物が山のように捨てられ、一方では毎日のように飢餓で人々が死んでいくのですか。なぜ人々は争い、ついには全く何の関係もない子供たちが傷つき死んでいくのですか。

人は、自分が何を求めているのか、よくわかっていないのです。自分の求めているものが、自分の内にあるということが徹底して理解されたなら、もはや争いというものは起こり得ない。争いは、自分の外に何か大切なもの、本質的なものがあるという錯覚に基づくのです。これを佛教では「妄想」といいます。

外にあるものを求める限り、人は争わねばならない。なぜなら、その外物に対して、同じように所有権を主張する人々がいるからです。互いに外物を自己のものにしようとして、人々は争い続ける。多くの罪のない人々がこれに巻き込まれる。本質的なものは外にはない。あり得ない。どうしてこれに気づかないのか。

人々が、余りにもせわし過ぎるからです。外物を追い回すのを止め、立ち止まって自己の内部を調べようとする人はほとんどいない。そのために人類全体が非常に浅薄になってきている。

いま、我々に求められているのは、我々自身の内にある、大いなる力、『いのち』そのものに気づくことです。これなしには、いかなる政治も、いかなる学問も究極的には意味のないものです。特に政治は人間の生活に直接影響を与えるゆえに、こうした内的自覚というものが絶対的に必要になります。これがなければ、いずれ人類全体が破滅することになるでしょう。

(故 盛永宗興老師の著書より)

◇他人が怒ったら◇

(佛教教典にある言葉)

神々と阿修羅の論争
A『他人の怒りを制止しなければ愚人はますます猛り怒るから、厳しく罰し、制止するのが賢者だ』
B『他人が怒ったら、気を落ち着けて、静かにしているが良い。それが愚人を制止する道だ』
A『堪え忍ぶことは良くない。堪え忍んでいると、愚人は自分を恐れていると思い、ますます増長するだろう』
B『自分を恐れていると愚者が思うなら思わせておればいい。無力な人は常に堪え忍んでいる。力のある者が力のない者に耐えるのが忍耐であり、最上の忍耐なのだ』
Aは、阿修羅の言葉で暴力と刀剣にかかわり、不和・争いである。
Bは、神々の言葉であり、暴力と刀剣を否定した平和を示したものである。

(寂庵だより 13年8月号参照)
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