善勝寺だより|選ぶ時代の選ばれている寺『永代供養の善勝寺』どなたでも納骨できる、永代供養墓『東光山合同船』

善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第33号
平成13年1月5日発行
発行責任者 明 見 弘 道
  (2ページ)

東光山ミニ法話

『白隠禅師座禅和讃』

永代供養の善勝寺 これまでこのコーナーは、禅語の解説を中心にしておりましたが、今年からは、法要の折り皆様にいつも読んで戴いています『白隠禅師座禅和讃』の開設を行うこととします。

白隠禅師といえば日本臨済禅中興の祖といわれる方なのですが、同じ禅の和尚さんでも「一休さん」「良寛さん」ほどなじみはないかと思いますそこで今回は白隠禅師とはどういう方であったかということをまずお話しします。

伝記によると禅師は、1685年(今から315年前)駿河(静岡県)の原という片田舎に生まれました。大変な虚弱児であり、ハイハイもものを言い始めるのも遅く、3歳のとき初めて立ち上がることができ、家中の人が手をたたいて喜んだといいます。

当寺はこれといった娯楽はなく、お寺に行って坊さんの話を聞くことは大きなレクレーションであった時代です。

彼もまた婆さんや両親に連れられてお寺に行って説教を聞くことが大好きな子でした。

ある時(10才の頃)お寺で、地獄の話を聞く羽目になります。ものすごい地獄の様相を聞いて、大変なショックを受けました。隣の柿を盗んだこと、蛙を踏みつけたこと、親にうそをついたことなどを思い出し、自分が死んだら地獄に落ちると、子供心にそう思ったのです。

そこで、「いずれ自分は地獄に行く、それを何とか免れたい」という一念で、天神様にお参りしたり、観音経を読んだりするようになったということです。

この頃から両親に「出家させてくれ」とねだり続け、14才の時、原の松蔭寺の小僧になりました。それから徹底した修行に修行を重ね、『駿河には、過ぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠』と歌われる、天下の大僧となられました。

妙心寺派のきわめて寺格の低い寺の住職として、一生を終えたわけですが、今日では世界的に知られた存在であり、年齢も性別も、人種も民族も、才能も社会的地位も越えて、全ての人々にとって、白隠さんは、いまなお大いなる教師と呼びうる人なのです。

参考図書
『お前は誰か』『見よ見よ』 元花園大学学長(故)盛永宗興老師著 禅文化研究所発行
(おすすめの図書)

 

◇一口メモ◇

俗名での葬儀
 近頃、葬儀社からの依頼で葬儀に出頭すると、なかには戒名を付けないで俗名での葬式となります。これは善し悪し以前、菩提寺を持たない家庭が増えているための社会的現象としかいえないのですが、四十九日忌までには、菩提寺を定め戒名を授与していただくよう勧めています。

前にも書きましたが、仏式の葬儀とは佛弟子になる儀式であり、佛弟子としての名前、つまり戒名を頂くことは当然のことといえます。

ただ法外の戒名料を要求する寺があったりして、戒名料ということに対しての疑問も一部にあります。

また佛は平等であるはずなのに、戒名にランクがあるのはおかしいという意見にも一理あります。

善勝寺では今後、戒名のランクの問題や戒名授与に対する布施(戒名料)は検討する余地は有ると考えますが、壇信徒の葬儀には、戒名を授与することを前提として臨みます。また、当寺の墓地(合同墓地も含む)は戒名のない方の納骨を認めないことを原則とし、今回『墓地使用規則』にもこのことを明記することになりました。

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