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善勝寺だより

善勝寺だより

善勝寺だより 第97号

平成28年12月21日発行
発行責任者 明見弘道
(2ページ)
善勝寺だより第89号

東光山ミニ法話

 

『魂のふるさと』 山田無文老師著より

大阪の川柳会の中継がラジオでありました。課題は「年の暮」ということであったかと思います。
 「年の暮れ忘れていいこと悪いこと」
という一句がありました。
 これは極めて常識的な堅実なものの考え方であります。1年間を振り返ってみて、失敗したことや、人と争ったことや、苦しかったことなどは忘れてしまって、人に世話になったことや、ご恩になったことや、楽しかったこと、幸せだったことは、覚えておこうというわけでありましょう。
 きわめて常識的な健全な考え方ですが、私は、良いことも悪いことも、一緒にすべてを忘れてしまってはどうかと思うのです。忘年会ということは、良いことも悪いことも、ともに忘れてしまうことだと思うのです。すべてを忘れてしまわなければ新しい年は来ないのではないかと思います。来たといっても、いっこうに新しくないと思います。
 盤珪(ばんけい)禅師(江戸時代の高僧)が言っておられます。
「嫁が憎いの姑が憎いのとよく言わっしゃるが、嫁も姑も憎いものではないぞ。嫁があの時あんなことを言いよった、この時こんなことをしよったという記憶が憎いんじゃろう。姑さんがあの時あんな厭(いや)なことを仰(おつしや)った、この時こんな冷たい仕打ちをなさった、という記憶が憎いんじゃろう。みんな記憶を忘れてしまいさえすりゃ、嫁は憎いものではないぞ、姑は憎いものではないぞ」と。
 面白いお諭(さと)しではありませんか。平易なお言葉ですが、たしかに真理があると思います。記憶こそ苦しみのもとであり、忘却こそ救いであります。すべての過去を水に流して、毎日新鮮な意識で日暮しできたらと思います。山田無文老師
 記憶というものは、経験や知識の消化しないものだと、私は思うのです。経験や知識をただ記憶しておるだけでは、実際の役にはたちません。必要なだけをすっかり吸収して、自分のものにし、力にして再現せねばならんと思います。たとえば、茶道の作法をどんなに記憶しておっても、茶人とは言えません。剣道の型をどんなによく記憶しても、達人にはなれません。
 このごろ、ある著名な説教師さんのお話を聞いたという人がありましたから、「良いお話でしたでしょう」と申しましたら、「お話は申し分のない良いお話しでしたが、たった一つ足らんものがありました」と言われるのです。そこで「それは何ですか」と尋ねましたら、「ぬくみが足りませんでした」と答えられました。恐ろしい言葉だと思いました。どんな立派なお説教でも、それが記憶の受け売りだったら、テープレコーダーも同じことでしょう。よく噛みこなし吸収して、わがものにし、温かい血液を通して語られなくてはならぬと思います。
親が子にしてやったことを、ああしてやった、こうもしてやったといちいち覚えておったらどうでありましょう。親の慈悲にはなりません。
 日々の経験と知識の中から、自分の人間性を育てるに必要な精分を十分吸収して、一切の記憶を忘れ、温かい人間愛として、生活の中に再現されることが大切だと思います。
 (このページは無文老師著「魂のふるさと」より要約・抜粋したもので一人称は無文老師です)

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