善勝寺だより 第85号平成25年12月20日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その12他人(ひと)の邪曲(よこしま)を観(み)るなかれ 他人(ひと)のこれを作(な)し
かれの何を作(な)さざるを 観(み)るなかれ
ただ おのれの 何を作(な)し 何を作(な)さざりしを 思うべし
(50 友松圓諦師訳)
今回は、わかる仏教講演会に講師としてお招き致しました、「青山俊董老師」の著書「法の華鬘抄」を引用・参照することと致しました。
「他人の邪曲を観るなかれ」他人の欠点を観てはいけないというのである。「他人のこれを作し」というのは、他人のしでかしたあやまち、やってはならないことをしてしまったことについてとやかくいってはならない。また、「かれの何を作さざを観るなかれ」は、やらねばならないことで、怠ってやらなかった他人のことをあれこれとあげつらってはならない。「ただおのれの、何を作し、何を作さざりしを、想うべし」というのは、他人はともかく、この私はどうか。道としてやってはならないことを、凡夫の思いに負けてやってしまったのではないか。道としてやらねばならないことを、怠けてやらないでしまったのではないか。ただそれだけを考えよ、というのである。
数ある『法句経』の言葉の中で、特にこの言葉が当時の私(十五才)の心をとらえて放さなかったのは、私の心が外にばかり向けられ、外のことの批判に明け暮れ、それにふりまわされていたからである。
高校(愛知学院)に入学して間もないというのに、あんなあり方は駄目、こうあるべきだ、あああるべきだ、と生意気に作文に書きたてたり、生徒会で意見発表をしてたりしていた。そんな矢先であったからこそ、この一句に出会うことができたのである。真っ向から頭をガーンとなぐられた思いであった。うっかりすると自分の目が自分の足下を離れて、他人の行動のほうへそれる、そういう自分に気がつくたびに、「他人の邪曲を観るなかれ」「ただおのれの、何を作し、何を作さざりしを、想うべし」と、吾と我が身に言い聞かせたものである。
しかしながら他人の姿は見えても、自分の姿はなかなか見えないものである。(以上、老師の著書からの引用)
最後に次の一句を紹介します。解説は中村元先生の訳を参考にしました。
他(ひと)の過失(あやまち)は見やすく おのれのとがは見がたし他(ひと)のあやまちをただすこと
糠(ぬか)を簸(ひ)るがごとく
おのれのとがは
許(いつわ)りふかき賭者(かけし)の
不利の骰子(さい)を
かくすがごとく
自らおおいかくすなり
(252 圓諦師訳)
他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を糠殻(ぬかがら)のように吹き散らす。
しかし自分の過失は隠してしまう。狡猾(こうかつ)な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
(狡猾=悪賢い・こすい) 〈つづく〉
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