善勝寺だより 第104号平成30年9月10日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『延命十句観音経』 第五話
円覚寺派管長 横田南嶺老師著
常楽我浄(じょうらくがじよう)
わたしたちはいつの世にあっても変わることのない思いやりの心を知り苦しみ多い中にあって
人のために尽くす楽しみを知り
この慈悲の心を持って生きることが
本当の自分であり
汚れ多き世の中で
清らかな道であると知りました。
さらに続いて「常楽我浄」です。
自分たちの思うようにゆかないもの、お釈迦樣はそれを四つ取りあげまして、
「常楽我浄」という言葉で表しました。
「常」とは常に変わらないことです。いつも同じでいて欲しいと思う、それが思い込みであり、誤ったものの見方であります。
世の中は常に移り変わる、人も世界も一時たりとも同じではないのです。でも私達はいつも同じようでいて欲しいと思います。
ご年配の方にお目にかかりますと、「ちっとも変わりませんね」などと申し上げますが、あれはそうではないのです。残念ながら前にお目にかかった時よりも確実に年を取っています
ところがそれを「去年よりもお年を召されましたね」などと、そのまま真実を申し上げますと、それからお寺には来なくなってしまいます。
皆さんも「変わりませんね」とか「ちっともお年を取りませんね」「お若く見えますね」など言われましたら、ああ年を取ったのだとお思い下さい。
お若い二人が「永遠の愛を誓います」と言いますが、残念ながら、あやしいものです。世の中は「常」ではない「無常」だというのが真理です。
二人で永遠の愛を誓うなどというのもお釈迦さまの教えでは、それは思い込みに過ぎないと言われてしまいます。これから結婚をしようかという方にはお気の毒ですが、そうなのです。
次が「楽」。文字通り楽だと思いたいのです。二人で一緒になれば、楽に毎日暮らせる、毎日が楽しい、残念ながらそうはいきません。毎日は楽ではありません。
楽の反対は「苦」です。世の中は苦しみだとお釈迦さまはお説きになりました。生まれる事の苦しみ、老いる事の苦しみ、病の苦しみ、やがて死を迎える苦しみ、好きな人と別れる苦しみ、嫌な人に会う苦しみ、求めても得られない苦しみ、この体と心に感じるものは苦しみだと説かれました。
この苦しみというのは、思うようにはいかないという意味があります。生まれる事も、死ぬ事も、病になることも、年を取ることも思うようにはいかないのです。
思うようにまかせない世の中を、耐え忍んで生きる道をお釈迦さまは説かれました。
「我」と「浄」は次号に譲ります。 (続く)
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